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店主コラム

2010年12月13日

「水(貴船神社)と油(離宮八幡宮)の関係は!?」

明治まで貴船神社の社家を務めていた鳥居家の二男として誕生した叔父(父の弟1940年生まれ)は小学生の頃、大山崎にある離宮八幡宮の跡継ぎとして養子に出された。小学生の叔父には意味が解らず「なんでずっと山崎に居るんやろう?いつになったら貴船に帰れるんやろう?」と寂しい思いをしていたという。
大人になった叔父は離宮八幡宮の宮司になり、その長男も跡取りとして神官を務めている。

天正10年(1582年)に本能寺で信長を討った明智軍と、備中高松城攻めから急いで引き返してきた秀吉軍による”天下分け目の合戦”の舞台となったのがこの離宮八幡宮のある「山崎」(天王山)であり、両軍は現在の京滋バイパスを挟むような形で対陣した。この地が決戦の場に選ばれた理由は、山崎は京から西国へと出るための要所であり、明智軍はこの要所を防衛する形で戦わざるを得なかったからだと言われている。
「天王山」「洞ヶ峠」「三日天下」はいずれもこの合戦を由来とする成句であり、天王山の山中には「秀吉旗立ての松」が、妙喜庵には現存する唯一の”利休が作った茶室”「待庵(たいあん)」が残されている。国宝に指定されている茶室「待庵」は山崎の合戦のおり、利休によって秀吉軍の陣中に建てられた二畳の茶室を妙喜庵に移築したものだという。

離宮八幡宮は清和天皇の”八幡神を九州の宇佐八幡宮から京へ御遷座せよ”との命を受け、貞観元年(859年)「石清水八幡宮」として建立されたが、ここは嵯峨天皇の離宮である「河陽宮」の跡地であったため、後に社号が「離宮八幡宮」と改称された。
その頃、当時の神官が搾油器を発明し“エゴマ油”の製油を始め、朝廷より「油祖 離宮八幡宮」の名を賜った。
「油座」として油の専売特許権を持ち、室町時代には”西の日光”と呼ばれるほど の壮大な社殿を構え栄華を極めた離宮八幡宮であったが、信長の楽市楽座の政策で打撃を受け、さらに菜種油が大量生産されるようになるとこれに市場を奪われ徐々に衰退してゆく。
そして幕末の元治元年(1864年)「禁門の変」(蛤御門の変)では、尊皇攘夷派である長州藩の駐屯所となり、幕府・薩摩連合軍側の砲撃にあって被災してしまう・・・叔父曰く「時の神官も、長州を匿いたかったわけやないと思うねん!無理やり居座られたんに違いない!」・・・京から西国への要所として戦場に選ばれた戦国時代と同じく、幕末にも“天王山の戦い”は存在していたのである!!
明治9年(1876年)には、東海道本線(現JR)の京都神戸間開通により社地の大半がその用地と化したため、神領の規模が大幅に縮小された。明治12年(1879年)になって崇敬者の寄進により社殿が再興され、昭和4年(1929年)に改築されたが、現存する建築物は「惣門」「東門」(共に大山崎町指定文化財)のみとなっている。
叔父と従弟は古の離宮八幡宮に思いを馳せ、昔の栄光を取り戻したいと願っている。
今年、離宮八幡宮は創立1150年を迎え“平成の修造“と称する記念事業も無事に成し遂げる事が出来た。未来永劫、ますますの繁栄を祈念します!

弊社(右源太)では、山崎の叔父と従兄の協力を得て、この年の記念ともなる新しいモノを作っている。
離宮八幡宮の「御神油」と貴船神社の「御神水」を主原料として出来上がるモノだ。
“水”と“油”の交わり・・・
もうすぐ完成しますから、楽しみにしていて下さい!!

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長木(搾油器)

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離宮八幡宮

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貴船神社

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貴船神社 御神水

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